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三日月藩主森家(三日月家)

@森 長俊
(もり ながとし)
幼名・別名 松之助・快翁
官位 従五位下、対馬守
生年 慶安2年(1649)9月8日
(於津山)
襲位 延宝4年(1676)4月
支藩15000石(津山新田藩)

元禄10年10月
移封15000石(三日月藩)

隠居
(継承者)
正徳5年(1715)7月27日
(嫡男・森長記
没年 享保20年(1735)6月4日
(87歳・於江戸)
墓所 池上本行寺
法名
(戒名)
長俊院殿快翁日好大居士


(続柄)
津山藩2代藩主・森長継
(4男)

(実父)
継光院
(湯浅丹後守)
正室
(子)
永井尚政の娘・於玉
(元禄8年4月離縁)
某(夭折)
側室
(子)
家女
松之助(夭折)
側室
(子)
岡氏 布宇(浄心院殿)
長記 (2代藩主)
長廣 (関長治養子)
側室
(子)
家女伴氏
長照(森四郎左衛門家)
光照(久留里森家)
養子
(実父)
養女・瑞光院
(森長継の娘)


森長俊公木像
(三日月高蔵寺)

津山城の森對馬屋敷跡
(推定地)

乃井野陣屋長屋門
(兵庫県佐用町)

森長俊墓所
(池上本行寺)

竿柱の鶴丸紋
(池上本行寺)

香炉台の桐鶴紋
(池上本行寺)
※墓碑調査は関係者のご協力を得て、森家史料調査会によって行われたものです。
人物紹介
三日月藩初代藩主。
【出自】
津山藩2代藩主・森長継の4男として慶安2年(1649)9月8日津山で生まれた。母は長継の側室・於貝(偕)の方で、家臣・湯浅丹波の娘。幼名を松之助と称した。室に宮津藩主永井尚政の娘を迎えるが、後に離縁している。側室が数名確認されるが、中でも浄心院は正室に準じる待遇をされている。

【3000石から大名に】
寛文3年(1633)4月に初めて江戸へ出府し、寛文5年10月9日、父長継に従って江戸城に登城し、はじめて将軍家綱に拝謁した。延宝3年(1675)には、従五位下對馬守に叙任。父長継が藩主の時代から3000石を給されていたが、延宝4年(1676)長継の願いにより、兄・長武が治する津山藩領内より1万5000石を分与されて津山新田藩主となる。
だがこれは内証であって、幕府の公認は得ておらず、8年後の貞享元年(1684)になって認められ、諸侯に列せられた。幕府の公認が遅れたのは、藩主の兄・長武が甥・長成が成人するまでの暫定襲位であったため、自身が退身した際の隠居料を気にしたからとも言われる。(長武は隠居後、2万石を給米で与えられている。)

【三日月藩の立藩】
元禄10年(1697)8月、本家の津山藩森家が改易になると、津山新田藩も所領の一切が収公され、当時津山に在国中だった長俊は、菩提寺の本源寺に謹慎して幕府に恭順の意を示す。これが幕府に認められて、同年10月改めて播磨国の内に1万5000石が与えられ、乃井野に在所を定めて三日月藩(乃井野藩)を立藩した。

【藩の基礎作り】
乃井野の名主であった井上家の邸宅を買い上げて陣屋とし、陣屋を中心に武家屋敷などの城下町形成を図って三日月藩の基礎を築き上げた。津山新田藩時代は藩庁を本家津山藩の津山城内に置いて政務を執っており、長俊にとってこれが初めての実務的な統治となる。長俊の初入封は2年後の元禄12年であるから、三日月の街づくりを江戸から指示をしていた姿が想像される。

【隠居】
正徳5年(1715)7月に致仕し、嫡男長記に家督を譲って自らは快翁と号した。20年の余生を過ごして享保20年(1735)6月4日、87歳で江戸に没した。

【風貌・嗜好】
 森氏雑話によると、生まれながらにして、平の大名とは格がちがい、真さに国主のお子様であると称えられたとある。
また背丈は高く、鼻も高く、面長で、顔色は青く、眼力があって眦は上がり鋭いと評している。
現在、三日月高蔵寺には長俊の木像が残っており、著者が評したとおりの雰囲気を良く残している。
食事は魚を特に好み、酒タバコを嫌ったという。御菓子を良く食べ、お茶は殊のほか良く飲んだという。(森氏雑話は三日月藩士の記録なので、詳細な記述がある反面、若干の装飾があることは否めない)

【人柄・交友関係】
その人柄は人情に厚かったといわれ、自身に1万5000石を給して大名に取り立ててくれた兄・長武には特に義理を尽くしたという。長武は4代藩主長成の成人を以って隠居し、寂しい余生を送っていたが、度重なる長俊の訪問に感心し、自分が藩主のときに気づいていたら、5万石くらい進呈したかったと漏らしたと評されている。

また、無類の動物好きで犬を特に可愛がったという。
参勤交代の途中、駿河吉原の付近で、狆(犬種)が籠を飛び出したことがあり、藩士が必死で探し捕獲したという逸話がある。また、鷹狩りに雁を用いた家臣を(雁を心配して)叱責した逸話もある。

【交友関係】
長俊は諸侯ともよく付き合ったが中でも出羽本荘藩主の六郷政晴と特に親しく、隠居後は泊りがけで浅草にある六郷家の江戸屋敷を訪ねたという。また長俊の没後、六郷政晴は浅草から18キロも離れた池上の墓所まで長俊の墓参に訪れている。大名が他藩の藩主の墓所に詣でるのは大変珍しく友好ぶりを伺わせる。
また浅間大社の神職・植松修理とも親しく、参勤交代の途上で毎回あって歓談し、数宿ともにすることがあったが、ある時は津山まで連れて行ってしまったことがあるという。
また京都の呉服商・吉文字屋五郎四郎夫妻とも仲が良く、津山へ招聘して一ヶ月も滞在させたと森氏雑話に書かれている。大名、神官、商人と身分の差に関係なく交友関係を持っていたことを伺わせる。

血縁系図

関係資料
三日月藩日記
森氏雑話
文昭院殿燈籠銘文
武家伝聞記
森家先代実録
寛政重修諸家譜
池上本行寺墓碑碑文
個人蔵古文書資料
播磨三日月(乃井野)藩主森家墓地調査報告書

関係記事
森長俊の三重塔〜宇治・三室戸寺
森長俊公忌

歴代当主 西暦 主な出来事 年齢
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1649
慶安2年9月8日
津山藩主・森長継の4として、津山城で生まれる。
1歳
.

1676
延宝4年4月
森長俊、1万5000石を父より与えられて津山新田藩主となる。
28歳
.

1684
貞享元年10月21日
長俊の所領・津山新田藩が幕府に公認され、諸侯となる。
36歳
1685 生類憐みの令 37歳
A




1687 貞享4年6月16日
森長俊の嫡男・森長記生まれる(後の2代藩主)
38歳
.

1697 元禄10年8月
本家の津山藩が改易となる。
10月19日
本家の改易に伴い、津山新田藩の所領を三日月藩に移封される。
49歳
1698 元禄11年7月11日
父・森長継、江戸で死去。89歳
50歳
1701 元禄14年3月
浅野内匠頭、吉良上野介に殿中において刃傷(赤穂事件)
53歳
.

・.
1715
正徳5年7月27日
森長俊隠居。嫡男長記が家督を継ぎ、2代藩主となる。
65歳




1716
享保元年
森長記の長男・森可敦生まれる
66歳
1720 享保4年
側室・於布宇の方(浄心院)死去。
70歳
.

B



1726
享保11年2月5日
森俊春江戸で生まれる(後の3代藩主)
76歳
1730 享保15年
森長記の嫡男・森可敦、将軍吉宗に拝謁する。
82歳
1735 享保20年6月4日
森長俊、江戸で死去。享年87歳。

10月
木像完成・三日月高蔵寺に安置
87歳
※1 出典:森家史料調査会編「森一族の呼称について」2004年版、 「森家年譜」。
※2 年齢は幕府届出による公称年齢を基にしています。

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