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三日月藩主森家(三日月家)

D森 快温
(もり はやあつ)
幼名・別名 木工之丞・長従
官位 従五位下、下野守
生年 明和6年(1769)10月18日
(於広島城)
襲位 寛政5年(1793)5月 養嗣子
寛政5年(1793)11月10日
襲封15000石(三日月藩)
没年
享和元年(1801)9月27日
(33歳・於三日月)
継承者 養子・森長義
(実父は 新見藩主・関長誠)
墓所 三日月高蔵寺(本廟)
池上本行寺(供養墓)
法名
(戒名)
快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士


(続柄)
安芸広島藩主・浅野重晟
(次男)

(実父)
浅野家家女
正室
(子)
森俊韶の養女
(実父は森俊春
なし
養子
(実父)
養子・森長義
新見藩主・関長誠の次男

人物紹介
【出自】
安芸広島藩8代藩主・浅野重晟(しげあきら)の次男として、広島城内で生まれた。重晟は正室を尾張徳川家の徳川宗勝から迎えるなど、外様の雄藩として御三家との関りを深く持っていたが、快温自身は国許の広島城で生まれていることもあり、浅野家譜には母を家女としている。幼名を木工之丞と称し、後に長従と改めるが寛政5年(1793)三日月藩主森俊韶の養嗣子となって快温と改め、同年の俊韶隠居を受けて三日月藩5代藩主となった。藩主となった翌年には、3代藩主森俊春の娘を隠居した4代俊韶の養女とし、これに快温を婿として迎えた。このため血縁上は森俊春の婿に相当し俊韶とは義兄の関係になるが、家督相続上は森俊韶の養嗣子となっている。

【藩政】
治世では、浅野家からの持参金を投じて藩校を創設、藩士の教育の場として廣業館と名付けた。他家から婿入りした殿様らしく、三日月藩政に新しい風を入れている。

(廣業館の扁額。伝・快温筆)

廣業館の命名の由来は定かではないが、実家である広島藩浅野家をモデルにしたのかもしれない。実父・重晟もまた、儒学者らを登用して藩校の創設に尽力している。廃藩置県とともに、藩校の制度は衰退するが、廣業館の名前は継承され、戦後まで廣業小学校(現・三日月小学校)が存在した。旧校舎は現在、列祖神社横に移築保存されている。

(旧廣業小学校校舎)

【死去】
享和元年(1801年)9月27日、国許滞在中に33歳で死去し、歴代藩主で唯一、国許で葬られた。三日月藩主森家の菩提寺である高蔵寺裏の高蔵寺山頂に墓所があり、その方角は安芸広島の方角を向いている。家督は、養嗣子の森長義が継いだ。
なお供養墓が東京大田区の池上本行寺にある。
戦時中に戦火の被害をうけたらしく、全体が黒く焼け焦げているが、碑文は判読できる。

血縁系図

関係資料
三日月藩日記
森氏雑話
森家先代実録
三日月高蔵寺墓碑碑文
池上本行寺墓碑碑文
浅野家譜(浅野長勲)
個人蔵古文書資料

関係記事

歴代当主 西暦 主な出来事 備考
※2
C



B







D



1769
明和6年10月18日
広島藩主浅野重晟の次男として生まれる
1歳
1774 安永3年5月29日
森俊春隠居。長男の養父・俊韶が家督を継いで4代藩主となる。
5歳
1776 安永5年10月4日
森可敦、三日月で死去。享年61歳
7歳
.

1782 天保の大飢饉
E



1787
天明7年8月20日
森長義、備中新見藩主・関長誠の次男として生まれる。(後の6代藩主)
16歳
1793 寛政5年11月10日
父・森俊韶隠居。妹婿の森快温が5代藩主となる。
22歳
F



1795 寛政7年
森長篤、播磨国赤穂藩主・森忠賛の11男として生まれる(後の7代藩主)
藩主・森快温、私財を投じて藩校「廣業館」を設立
24歳
1797 寛政9年2月4日
森俊韶、江戸で死去。享年48歳
26歳
1801 享和元年9月27日
森快温、領国の三日月で死去。享年33歳。
森長義が家督を継ぎ、6代藩主となる。
33歳
※1 出典:森家史料調査会編「森一族の呼称について」2004年版、 「森家年譜」。
※2 年齢は幕府届出による公称年齢を基にしています。

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