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森家の歴史
 
(平安末期・12世紀)
森家の家伝的な逸話から紹介したもので、正直なところ史実と断定することは難しいですが、森家の出自といわれている時代のお話です。

■清和源氏の祖、清和天皇
森家の出自は清和源氏とされている。
しかし、一部の史料では藤原氏や平氏を称している史料もあり、源氏を称するようになったのは江戸時代になってからと考えられている。
清和源氏の祖は清和天皇で、文徳天皇の第4皇子にあたり、当時最大の実力者であった藤原良房の孫にあたる。 この良房の強い意志によって、生後9ヶ月皇太子となり、文徳天皇が没すると9歳にして即位した、幼い清和天皇を補佐したのは外祖父の良房であり、彼は人臣として初の摂政となった。 良房没後は良房の養嗣子基経が実権を握り、これに憤慨した天皇は、やはり基経の妹である皇后高子との間にもうけた第一皇子、貞明親王に譲位した。在位は18年。
そしてこの貞明親王が後の陽成天皇となった。
譲位後は仏門に入って素真と号したが、元慶4年(880)に粟田山荘円覚寺で31歳で崩御した。このとき、遺言によって御陵は作られなかったが、現在は京都市右京区嵯峨の水尾山陵が清和天皇陵とされている。別名を水尾天皇といい、水尾院とも称された。

■森のという苗字の由来

森という苗字の由来は、清和天皇から7代目の子孫に当たる、源義隆が相模国の毛利庄(現在の神奈川県愛甲郡の辺り)に荘園を得て、この「毛利」が「森」と変形したものに由来する。
源義隆は「源」を名乗っているため、これをある日急に「森」と変えたわけではない。そもそも、「森」の呼称は苗字ではあるが、この当時の武将や貴族は苗字よりも、氏「源」を名乗っていた。そのためこの頃は、「森義隆」と称することはなく、「源義隆」と名乗っていた。それが次第に、移行して、ついには森●●と称するようになったのである。
江戸時代の森家の藩主達が墨蹟を残したり、燈籠を建てたりする際「源●●」と署名していることが多い。これもその名残といえる。

■源 義隆と平治の乱

森家の最も古い記述は鎌倉時代の吾妻鏡という書物に登場する。平治の乱の記述に源義隆が森義隆として初めて登場したのである。 平安末期、平清盛の専横政治に不満を持った源義朝らが、清盛が熊野詣で京都を離れた隙を狙ってクーデターを起こし、上皇や天皇の幽閉に成功して一旦は勝利を収めようとしていたが、窮地の清盛一行が兵を立て直して京都に帰還して逆転敗北となり、義朝らは都を脱出して逃れようとし、一族の長老となっていた義隆もこれに従った。しかし、比叡山を越えた辺りで平家軍の追い攻めに遭い、義隆の首に矢が当たって彼は即死した。 一族の長老であり、参謀と慕っていた義朝は彼の死をひどく痛み、さらに遺体を敵に奪われることを恐れて石を繋いで琵琶湖に沈めたという。

戦国時代における森一族の多くも戦死を遂げているが、初代太祖となる源義隆もまた戦死を遂げた人物であった。

2.鎌倉時代の森家

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