トップページ >> 森家の歴史 >> 5.森家の処世術(2)
森家の歴史
 
(戦国時代末期・16世紀)
戦国時代は天下人が次から次へと代わる動乱期で、処世術は重要な保身術でもありました。信長死後の森長可や森忠政の動向を紹介します。

■豊臣秀吉と鬼武蔵

信長や蘭丸の死を知ると、蘭丸の兄で、信州海津城で28万石を統治していた長可は、本領である自分の生地金山城だけを死守することを決めて、この海津城を放棄した。彼は信長の威光によって自分の領地が平穏に統治できた事をしっていたのである。
その後、信長の遺業を引き継いだ豊臣秀吉に仕えることとなり、1585年の長久手の戦いで徳川家康と戦って戦死した。
長可は「鬼武蔵」とあだ名された勇猛な武将だったが、この時、家康は彼が戦死したことを知って大いに安堵し、「鬼武蔵を討ったのは千人の歩兵を討ったのと同じだ」と言い、家康の家臣達は 「池田や鬼武蔵は死んだのだから これで安心して長袴をはける」と小唄が歌われたほどであった。この長久手の戦いと呼ばれるこの戦争は後に屏風絵に描かれたが、この絵の中に、彼が銃弾に撃たれて落馬する様子が描かれている。

■森長可の戦死と忠政の出世

長久手戦争は、織田信長の死後、その覇権を秀吉と家康が争ったために起きた戦争である。しかし、長可は最初からこの戦いが徳川軍に有利であることを知っていた、そのため、参戦することを拒んだが、秀吉の嘆願によって仕方なく参戦した、このとき死を覚悟した長可は死を意味する白装束を着用し 家族へは遺書を書いた、内容は自分の遺品を家族や秀吉へ譲渡するもので、戦死の2週間前に書かれたこの手紙は現在も名古屋の博物館に保管されている

 この遺書を読んだ秀吉は号泣したといわれる。そして、彼の弟である忠政を森家の跡継に任命した。しかし、長可が統治していた広大な領土(28万石)は秀吉に没収され、忠政は僅かな領土しか与えられなかった。これには秀吉が強大な領土や戦力を持つ長可が光秀のような謀反を起こす事を恐れて、彼を故意に戦死させたという説もある。

信長によって基礎が築かれ、彼の意思を継いだ秀吉によって ようやく日本全土が統一されると、秀吉は関白となり、忠政は侍従に任命された。そして秀吉は京都に聚楽第を造営して1587年に天皇を招いたとき、忠政も侍従としてこれに従った。この時忠政は天皇家の家紋と豊臣家の家紋を使用することを許された。当時の古文書に忠政は「金山侍従羽柴右近」と署名している。

4.森家の処世術(1) 6.国主大名となる森家

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