(江戸時代初期・17世紀)
戦国の世を生き抜くことに成功した森家は、家康によって一国の大名に取り立てられます。江戸幕府内における森家の立場と、その役割を覗きます。
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■森忠政の家康支持
1598年に秀吉の死ぬと、天下の政権は徳川家康と前田利家の2頭政治となった。しかし、まもなく利家が病没すると、家康の独裁体制が構築されてゆき、石田三成など、この家康の独裁に反対した秀吉の家臣は大勢いたが、森家に対して家康は、かつて秀吉が没収した兄長可の領土について、その一部であった川中島を忠政に返還し、石高の加増をしたため、忠政は大変喜び、以前から秀吉の領土没収に不満を持っていたことを理由に、この頃から森家は家康に与するようになった。
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■森忠政の美作国拝領
しかし、豊臣恩顧の大名達は家康に対する反発を更に募らせてゆき、とうとう1600年豊臣派(西軍)と徳川派(東軍)による関ヶ原の合戦となる。このとき忠政は徳川秀忠の傘下にあったため、関ヶ原で西軍と対峙することは無かったが、やはり西軍に与していた真田家の居城があった信州上田城を攻めていた。関ヶ原後、家康が完全に政権を掌握し、1603年に家康は天皇によって征夷大将軍に任命されると、忠政を京都の伏見城に招いて美作国(18万石)を与えた、これは兄の長可の領土より少ないが、国主大名という大名としては最も高い地位を与えられた。
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■大坂の陣と豊臣家滅亡
しかし 関ヶ原戦争は秀吉の遺族 すなわち豊臣家の意思による戦争ではなく、豊臣家の多くの家臣は処罰されても、豊臣家は無傷で存続していた。しかし秀吉の死によって豊臣家は弱体化したため、1614年家康は豊臣家に大坂城を明渡す要求をした。豊臣家がこれを拒否すると。家康は家臣の軍勢によって大坂城を包囲し、このとき忠政も参戦した。いわゆる大坂の陣である。
この包囲は冬と夏の2回行われ 翌年夏の包囲によって豊臣秀頼をはじめとする、豊臣一族は大坂城で自殺した。この大坂の陣については後に屏風絵に描かれ、十文字の旗を掲げた忠政の軍勢も描かれている。
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■徳川幕府と森家の役割
大坂の陣を最後に大きな戦乱はなくなったが、将軍となった徳川家康は本拠地である江戸に幕府を設置し、儀礼を中心とした文化が発展した。
諸大名は定期的に江戸に来ることを義務付け、特に外様大名に対しては、幕府が所有する城の修復などを命じて資金を浪費させ、軍事力の無力化を図った。忠政は美作の津山に壮麗な城を築いたことから、その技術力を幕府のために提供した。森家は豊臣家包囲によって破損した大坂城や京都の内裏造営、駿府城や江戸城の修復をおこなっている。
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