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森家の歴史

(江戸時代中期・17世紀末〜)
長い森家の歴史で、この時代が最も豊かで繁栄、且つ安定した時代でした。僅か90年しか持たなかったこの全盛期の一部を紹介します。

■2代藩主森長継とその息子達

長継は87歳で生涯を終えるまで、森家の全盛期を見届けることになる。忠政が残した森家の財産と国力は大変豊かなもので、彼は領内に多くの寺院を造営した。また、津山城の外に衆楽園という広大な庭園を造営した。
この離宮は京都にある仙洞御所を真似て造られ、他藩の使者を引見する場所として使われた。長継の治世は50年に及び、10人の息子がいた。なかでも、長男の忠継が彼の後継者で、江戸藩邸の留守居役を集めた組合制度を考案するなど、政治能力の高い人物であったが、37歳のとき3歳の息子を残して病死した。当時の物語史料によれば、臨終の間際、長継は自分が長く在位した結果息子に藩主の座を譲れなかったことを嘆き、忠継に息子の万右衛門が成人したら 必ず彼を領主にすると約束すると、忠継は微笑みながら世を去ったという。
忠継の死去から1ヶ月の後に長継は隠居し、二男の長武に藩主の座を譲った。
ただし、忠継の子・万右衛門が元服するまでの期間限定の領主と定められ、事実上は万右衛門の後見人としての役割に過ぎなかった。だが、この間に長武は弟の長俊や長治に領地を分け与えて分家させた。後の播磨三日月藩(15000石)と、備中新見藩(18000石)である。この2家は小藩の領主として存続し、明治維新後は華族に列せられて子爵となった。
■森長成と森長武の確執

 1686年 元服して長成と改名した万右衛門は、先代の藩主で祖父の長継の協力を得て、隠居を渋る長武から藩主の座を譲り受ける。 4代藩主となった長成は病弱であったが、重臣の支えにより善政を敷き、皇室を敬い、学問を擁護した名君となった。このとき長武には隠居料として2万石が与えられたが、それは領地としての2万石ではなく、蔵米としての2万石だった。
1万石以上は大名に列せられるが、これは領地としての1万石であり、大名になれないままの長武は不満だったという。しかも、不本意の隠居をさせられたこともあって、次第に長成と対立するようになり、蔵米の2万石を領地に変えてもらって、再び藩主に復位することをたくらむようになった。 この不和は幕閣にも聞こえるまで発展し、後に長武が死去した後、彼の遺産は全て藩主の長成に没収させるという形をとらせて、長武の家は諸侯の列よりはずされてしまった。


■森長成の犬小屋造営

 5代将軍徳川綱吉は嫡子ができない事を理由に、生類を殺してはならないという悪法を作り、特に犬年であったために犬を大切にした。江戸中の野犬を収容する施設、つまり巨大な犬小屋をつくるよう長成に命じたのである。
 病の長成は江戸に20万人を動員し、僅か2ヶ月で犬小屋を造営するが、完成後まもなく27歳で病死した。しかし長成には嫡子がおらず、隠居した長武も前年に病死したため後継がおらず、叔父の衆利を後継者に定めるが、幕府の許可を得られず、美作国18万石は没収されて森家は断絶した。
7.外様大名としての森家 9.森家の全盛

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