トップページ >> 森家の歴史 >> 9.森家の落日と再興
森家の歴史

(江戸時代中期以降・18世紀〜)
若き藩主の病死と、お家騒動によって森家は憂い目の始末となりました。しかし、分家の各家が存続を認められ、やがて御家再興となります。

■美作国改易と御家再興
津山藩主・森長成が27歳の若さで病死したことで、跡継ぎをなくした森家は改易となり、津山藩は取り潰されます。しかし、先代藩主の長武によって石高を分知されていた長俊と関長治は、家の存続を認められ、長俊は津山新田藩から播磨三日月(兵庫県佐用郡)に同じ石高の1万5千石で、関長治も津山宮川藩から備中新見藩に1万8千石のまま移封された。
さらに津山藩2代藩主の森長継が87歳で存命していたため、養老料として備中西江原(岡山県井原市)に2万石を与えられた。こうして宗家断絶の後も森長俊と森長継の2名が森家として、これに関家を含めた3家が存続した。そして宗家に代わる家として長継の家が宗家格となった。

 長継は哀れにも森家の全盛期を見つめ、その落日までを見届けたのである。
彼はそのショックで病となり、西江原の領地に赴くことなく、翌年に江戸で死去した。長継の領地は彼の8男、長直が相続し、宗家断絶から8年後、播磨赤穂藩主となって、転封した。

また、森家が有していた18万石の家格については、高齢の長継が存命の間は維持遇されてきたが、津山改易の翌年に没したことで、家格は下げられ、江戸城では大広間に詰め所を持っていた森家は雁間という小大名の詰め所に移されることになった。
■三日月森家と久留里森家

三日月藩初代藩主となった森長俊には長記、長廣、長照、光俊の4人の男子があったが、長記は二代藩主となり、長廣は養子となって新見藩2代藩主となった。
三日月は、交通の要所で山陰地方の大名家が参勤交代の折に通過するポイントとなり、宿場町として繁栄した。後の3代藩主森俊春の時には、幕府領であった美作地方の7万石を管理するように命ぜられ、預地として40年にわたって森家が支配している。

また、長俊の子のうち、長廣と光俊は他家に仕官することとなり、光俊は水戸藩の付家老であった中山家に仕官する。中山家の子息・三五郎の付き人となり、その後まもなくして三五郎が館林藩家老の黒田信綱の養子となって黒田直邦と改め黒田家に入ると、これに随身し黒田家の家臣となっている。その後、綱吉は5代将軍となるため江戸城に入ると、直邦は西の丸老中に出世し、将軍綱吉の側近となっている。この頃、光俊は光照と改名している。
直邦は綱吉に下館城を与えられるが、彼は綱吉の側近であるため城に行くことができず、光照は城代として派遣されている。

さらに光照の子・光仲の時、黒田家が久留里に新たな領地を与えられて城を築くとき、光仲を築城奉行に任じている。 また光仲の臨終に際しては、本家の三日月藩主から典医が派遣され、手厚い擁護を受けた。
光仲以後の歴代も代々黒田家の家老となり、また馬術を得意としたため、歴代の当主には江戸城に呼び出されて将軍に馬術を教えた者もいた。

8.森家の全盛 INDEXへ

Copyright©2009 mori-family.com. All rights reserved.
当サイトに掲載されている内容(文章・写真および画像など)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。