トップページ >> トピック >> 森家と茶道 >> (1)千利休と森傳兵衛
(1)千利休と森傳兵衛

東京国立博物館に、森傳公にあてられた千利休の書簡が残っている。
書簡は、利休が傳兵衛に茶杓を贈った際の物と考えられ、その文面から、傳兵衛が利休作の茶杓を求めていたことが分かる。
【釈文】

茶杓が御入用というので、

この者に持たせて一つ進上します。

これは我々が取っておいたものです。

また、この金襴の(茶入)袋を

慶様へ渡していただきたい。


〆森傳公
   まいる机下      宗易

この森傳公とは、傳兵衛を称した森可隆のことで、森可成の長男である。
元亀元年(1570)19歳のときに初陣し、父・可成と共に朝倉義景の籠もる越前の手筒山城を攻めた。傳兵衛は功を焦ったのか城に一番乗りして見事に陥落させるも、深入りしたために討死してしまう。
この短い生涯のために可隆の史料は大変乏しいが、こうした資料が残っていることは可隆の人柄を感じさせて面白い。
また、傳兵衛が生きていたこの時代、利休はまだ宗易を名乗っていた。差出人が「利休」でないのはその為である。

書簡の年月日は分からないが、19で死した若い傳兵衛を考えれば、討死した元亀元年(1570)より数年遡る程度だろう。
現代なら少年とも言うべき年頃ながら、高名な茶人である利休の茶杓を欲しているところなどは、傳兵衛が一角の茶人であったことを髣髴とさせる。筆者は当初、傳兵衛が先輩か恩人への贈り物のために取り寄せたのかもしれないと考えた。しかし利休が自筆の手紙で、ことづけをしていることを考えれば、両者が1度や2度の面識ではないことは想像がつく。傳兵衛が茶道に執心であったと考えるのが妥当だろう。
そう考えれば、傳兵衛が初陣の功に焦ったのは、武勇だけでなく恩賞として与えられる信長の名物茶器が目当てだったかもしれない。

さて、文中には金襴の袋を慶様へとある。この慶様は慶首座と考えられる。堺の富豪・淡路屋の出身だった慶首座は、堺の禅通寺で春林和尚に参じて得度して慶蔵主となり、さらには首座となって慶首座と呼ばれるようになった。その後、南宗寺(なんしゅうじ)の塔頭集雲庵の住持を勤めたともされるが、利休に師事し、多忙の利休に代わって茶杓の下削りをしていたという。
茶人としての名声が高かった利休は、茶杓を求められることが多く、手間のかかる荒削りの工程を弟子に任せていたからである。
傳兵衛が得た茶杓もそんな一品かもしれない。

ちなみに慶首座は南坊宗啓と名を改めて「南方録」を著したとされるが、慶首座が南坊宗啓と同一人物であるかは明らかではない。


(2)森長可の遺書から
森家と茶道トップへ
Copyright©2009 mori-family.com. All rights reserved.
当サイトに掲載されている内容(文章・写真および画像など)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。