名古屋市物館に、森長可が死に際して書き残したとされる遺書の写しが残っている。
その文面には自身の財産とも言える茶道具類の処分について克明に記されている。
全体は、家族の身の振り方や跡継ぎのことなど、一家の長として心配なことが列記されているが、ここではテーマに沿って茶道具に関わるところのみを挙げた。
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【釈文】
一 澤姫の壷 秀吉様へ進上したい。今は宇治にある。
一 台天目 秀吉様へ進上したい。仏陀にある。
中略
一 悪しき茶の湯道具、刀、脇差は千に取らせる。
(それ以外のものは)いずれも、仏陀寺と同じようにお届けするように。
仏陀にあるもの以外はすべて千に取らせる。
ただし、(私が死ぬような事態に)なった場合。
天正12年3月26日朝 武蔵
後略
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遺言状の一行目に登場する「さはひめのつぼ」は、東山御物に数えられる「沢姫の壺」を指す。
織田信長の所持であった物を、森長可が拝領した。宇治にあるとしているのは、八十八夜の前でもあり、茶を入れるために茶師のところへ預けていたのだろう。今の暦では5月2日が八十八夜とされているが、旧暦では3月末から4月初旬に相当する。
二行目にある台天目は、仏陀にあると書いている。仏陀とは山城仏陀寺のことと考えられる。
朱雀・村上両天皇の兄弟によって建立され経緯を持ち、退位まもなくして崩御した朱雀法皇の御所・朱雀院に、村上天皇が法皇の法名である仏陀寿を採って仏陀寺とした。当初は柳馬場丸太町に位置したが、長可の頃には既に現在地(寺町通今出川)に移転していたようである。江戸時代を通じて勅願寺であった。
唐物である天目茶碗には通常、茶碗を乗せる台が付随している。このことから茶碗と台をあわせて台天目と称し、今でこそ茶道で用いられるが、渡来元の中国で用いられる台天目は仏前に供える道具の一つであった。それを足利義政の頃には貴人用の茶碗として転用されるようになった。仏具であったことを考えれば、長可が寺院に預けていたとしても不思議ではない。
また、悪い茶道具や刀、脇差は「せん」に譲るとある。ここで言う「せん」とは、唯一生き残った長可の弟・千丸であり、後の森忠政である。
蛇足だが、この遺書では、千に後を継がせるのは嫌だと記している。母は秀吉から所領を貰って京都で暮らすようにと指示している。
自身の死後、秀吉に庇護してもらうためには、冒頭で特記した東山御物を秀吉に献上するのが上策だと考えたのだろう。
不幸にしてこの2週間後に長可は銃弾に倒れる。この遺言状が守られたかは確認ができない。しかし森の一家が秀吉によって守られ、長可は嫌がったが、弟の千丸は森の家名を継がせてもらい、秀吉によって無事に大名として育ててもらえたことを考えれば、恐らく沢姫の壺と台天目は豊臣家の蔵に入ったものと推察されよう。
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