■重んじられた茶道具
中国大陸で発祥した喫茶の習慣は、平安時代に遣唐使によって日本に渡来。鎌倉時代には、茶葉を粉末にする抹茶の製法が栄西禅師によって渡来しました。禅宗の中で発展した喫茶はその後、東山文化で知られた室町将軍・足利義政によって、中国渡来の茶器が評価されるようになり、俗人の間でも茶道が
が為政者や貴人の前で茶を点てる行為へと儀式化され、茶道が確立しました。そののち足利幕府が陰りを見せはじめると、将軍家と同格の威光を目指した諸侯達は茶道をそのステータスとして庇護するようになり、その結果、織田信長や豊臣秀吉が茶道具に執心したことはよく知られています。
また、当時茶道で用いられていた道具の多くが唐物、すなわち舶来物であり、その携帯性や美術性の高さから高級品、さらには宝物として扱われるようになり、これが配下の武将に対しての恩賞の代用とされたり、敵将と和平を結ぶ際の契りの品として用いるようになったのです。
戦国時代末期に秀吉の庇護の下、千利休によって茶道が大成されると、利休やその高弟・山上宗二らによってこれらの道具類の評価が繰り返され、やがて東山御物(ひがしやまぎょぶつ)と呼ばれた足利義政伝来の茶道具と、利休らが評価した道具類を集成して「大名物」と称されるようになりました。
さらに利休の没後、綺麗寂びの茶道を確立した小堀遠州は、利休時代には軽んじられていた国産茶道具も見直し、新しいジャンル「中興名物」が生み出されました。その後、大名茶人・松平不昧による「雲州名物帳」などを経てこれらの格付けが広く一般へ普及し、現代の茶道においても珍重される指針として現在に生きています。
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