森家は代々築城の名手と言われ続けてきた。忠政公の父、森三左衛門可成公は織田信長から与えられた美濃金山城を築き、後に近江坂本城や宇佐山城の城郭形成に携わった。また、兄の武蔵主長可公もまた海津城などの城郭に手を加えたりしている。
このような環境で生まれ育った忠政公も自然と築城技術を身に着けた家柄となったのである。もちろん、可成公や忠政公自身が設計士となって築城の名手となったのではなく、その分野のエキスパートが家臣が代々森家に揃っていたというのが現実である。
さて、忠政公は秀吉公の時代に、朝鮮出兵で肥前名護屋城の築城を命じられ、これに従事している。家康公の時代になっても慶長11年に江戸城の城普請を手伝うように命じられ、同様にして翌12年には駿府城の城普請、14年には丹波笹山城の普請、15年尾張名古屋城の城普請、そして19年に再び江戸城の拡張工事のための普請、それから大阪城の城普請と、度々命じられている
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外様大名であった森家がこのように徳川家の居城の修築を手伝わされることは、外様大名の経済状態を温存させない目的もあるが、もともと築城知識のあった森家の家臣を使いたいという目論見もあったのではないかと思われる。これらの城は幕府の要所であり、これらをことごとく外様大名の森家に依頼したという点からしても、森家の築城技術が幕府に評価されていたと考えることも決して悪いものではないと思われる。 更に特筆すべきは、この慌しい中でも中止することなく領国の津山城を作り続けていたということである。工員は半減されているだろうが、各地の城普請に携われたおかげでそれぞれの城の特徴や技術を自分の城に取り込むことも可能であった。
津山城が名城といわれた所以もこのようなことが幸いしたからかもしれない。
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