関ヶ原の戦いで徳川方に大きな戦果をもたらした功績者であった広島城主福島正則が処罰される事件がおきた。理由は幕府に無断で城の改築造営を繰り返した容疑(実際には洪水で壊れた城の石垣を修復しただけであり、幕府老中の本多正則に許可を得ていた)である。元和5年(1619)6月、娘を中宮入内(天皇の后にする)ために上洛した将軍秀忠公は京都の二条城に重臣を集めて秘密会議を開き、福島正則を江戸城に召しだして奥州の津軽へ改易することを決めた。当時福島正則は江戸に参勤中で広島には在城していない、また将軍は広島と江戸の中間である京都にあって福島勢からも遠く、反乱の危険性はないと踏んだのであろう。そして江戸に居た福島正則は、この嫌疑が幕府の福島家に対する難問であることを悟り、もはや弁明をしても無駄であると、潔く恭順の意を表した。しかし、領国の広島では老臣で正則一族である福島丹波と長尾隼人は「江戸に居る主君の許しがなければ、将軍の命であろうとも城は明け渡さない」と、幕府の理不尽な処罰に篭城決戦の準備を始めた。そこで幕府はこれに対峙するために諸大名13家の軍勢を広島へ差向けた。近隣であった津山藩もこの13家の一つに選ばれ、忠政公も「金の三ツ団子」の馬印を掲げて広島へ軍勢を向けた。
処罰が通知された後、江戸屋敷に謹慎していた福島正則は、自分のために城を枕に討ち死にを決してくれた家臣に感極まり、一時は自害も試みたが側近の家臣に諌められ、老中からは国許の家臣を諌めるように求められ、正則は広島の家臣に宛てて無血開城して明け渡すよう書状を送った。これにより広島では事なきを得て無事開城させ、内心この反抗に不安を抱いた幕府もこの神妙なる態度を評価して奥州への移封を取り消し、森家の旧領であった信州川中島4万5千石へ封じて蟄居させた。しかし福島家への追い討ちは、まだ終わらない。
寛永元年に福島正則が死去すると、幕府が検死の使者を送ったにもかかわらず、使者が到着する前に正則の遺骸は領内の高井村で火葬したために再び幕府に咎められ、わずか3千石に減封され、さらに正則の子・正利には子がなく、福島家は無嗣断絶となった。無断で火葬してしまったのは、切腹による自害だったため、検視役に見せられなかったという説もある。
49万石の大藩といえども、ここまで徹底的に追い詰められたのである。
ちなみにこのときの福島丹波は後に前田家から3万石の家禄で仕官を誘われるも、これを拒否して京都で隠居生活を送った。そして長尾隼人は7000石の家禄で忠政公に仕官を誘われ、森家の家臣となったのである。
これは当時、天下が平定した徳川家康公は、外様大名に対するリストラとも言うべき政策を持ち出したからであり、脅威となる外様大名には冷遇して取り潰し、有能な外様大名に対しては縁組をさせて親藩として厚遇した。いわゆる外様懐柔策である。前者の典型例は福島正則や加藤清正であり、どちらも徳川幕府樹立に大きく貢献した大名家である。この政策に震えた加藤清正は家康公に忠誠を誓いながら世を去ったが、その死後やがて加藤家も難問を突きつけられて改易となった。どちらも強大な軍事力を持つ大藩で、有事の際に最も脅威となる相手であり、且つ徳川家に対する忠誠心が足りないと思われたのが最大の要因である。
後者の外様懐柔策に代表されるのは前田家や伊達家であり、国主大名であった森家も後に忠政公の嫡子忠廣公が徳川秀忠公の養女と婚姻して親藩の待遇を受けている。前田も伊達も強大ではあるが、比較的徳川家にも従順で、親戚とすれば更に強い味方になると考えたのである。
森家が改易となったのはこの時期からは大きく外れるものの、結論的に判断するならば外様冷遇政策も一つの要因であったという考え方もできる。しかし、忠政公の治世下で森家が取り潰しの対象とならなかったのは、忠政公が比較的早期に家康公に忠誠を示し、かつ家康公から絶大な信用を得ていたからであろう。
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