忠政公が江戸で過ごしていた時の記述を集めてみた。

■白根山の噴火による地震に遭う。

寛永2年9月、白根山が噴火し、このときの地震が江戸を襲った。この時の記述が森家全盛記に見ることができる。
この年の10月15日、江戸に在府中の大名諸侯が江戸城に総登城していた。忠政公も江戸城に詰めていたところ、地震がおき、転地も覆るばかりに揺れた為、諸大名は顔色を変えて避難しようとしたが、忠政公は泰然として座ったまま動こうとしなかったという。 このようなことでは動じないという態度を諸侯の前で現したエピソードである。

■江戸城で能見物中に地震に遭う

森家先代実録に、次のような記述がある。
寛永5年7月14日、忠政公59歳の時、江戸城で能があって、諸大名一同で鑑賞していたら大きな地震が起こった。諸大名は驚いて白州(能舞台の前)まで降りて避難した。忠政の向かいに座っていた森忠廣公も避難しようと立ちあがろうとしたが、忠政が目で威嚇してその場に留まるように指示した。忠政公の隣に座っていた堀尾山城守忠晴も立ちあがろうとしたが忠政は彼の袴を引っ張って、引き止めた。また、避難する途中であった伊達政宗も、忠政公らが座っているのを見て、扇を開いて白州に避難した者たちを呼び、「御前近くで大騒ぎをするな、揺れも収まったのだから、席にお戻りあれ」と鎮めて政宗公も席に戻った。翌日、堀尾忠晴はこの件で忠政公の屋敷に訪れて、お礼を述べたという。
ちなみにこの堀尾忠晴は先年の福島正則が改易された折、忠政公と共に廣島城の収城使として広島へ出陣している。その後でこのようなエピソードが残っているので、忠政公とも親交があったのかもしれない。
徳川実記などには7月11日に江戸で大地震があり、江戸城の石垣などが破損したと記されている。この14日という記述が確かであれば、その余震だったのであろう。

■大御所徳川秀忠公の形見分けを貰う。

寛永9年1月24日、忠政公63歳の時、2代将軍秀忠公が死去した際、御遺物(形見)として銀5千枚を拝領した。 将軍の遺物としてこのように金銀を拝領するのは、将軍の近臣か親族とされていた。忠政公の嫡子、忠廣公が秀忠公の養女を正室としていたことから、忠政公親子がこのような将軍家の親族の扱いを受けていたということがうかがいしれる。(森家先代実録)

■江戸で暗殺未遂に遭う

寛永9年、忠政公63歳の時、婿である池田備中守の屋敷を訪ねて帰りが遅くなり、夜中にお忍びで自邸へ帰る途中、何者かが刀を抜いて忠政公の籠をめがけて走り寄ってきた。お付きの従者であった松本 牧がこの者を捕らえたので、被害はなかったが、忠政公の指示によってこの者を放免し、命を助けたという。 江戸での出来事であるので、事を荒立てて幕府の耳に入ることを避けたかったのだと思われる。(森家先代実録)

■火鉢から弾けた火の粉。

寒気の厳しき折、江戸の殿中では大名達みんなが火鉢に寄って手を温めていた。そのとき燃え盛っていた炭火の塊が忠政の左手に飛んできた。しかし、落ちた火は忠政の手の上でなかなか消えず、忠政公は全く気にせずに座っていた。それを見かねた岡山藩主、池田忠雄(備前宰相)が急いで扇で忠政公の手から払い落としたところ、忠政公は「お世話かけるまでもありません、そのうち消えるはずです」と軽く笑って答えられたという。(森家全盛記)

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