寛永11年。将軍家光公が京都へ上洛するに当たり、津山藩主の森忠政公はその奉行役を命じられた。当時江戸にいた忠政公は病床にあったため、これを辞退するも、家光公は受け入れない。さらには堀尾忠清が死去したために断絶した出雲国、石見国と隠岐国を美作国と交換して30万石に加増させ、三カ国の国主にするという内約まで持ちかけてきた。すでに断る余地のないことを悟った忠政公は5月上旬、上洛する家光公より一足先に江戸を出発し、一旦領国の津山へ戻った。10日ほどで津山に戻り、加増予定地である三カ国へ家臣を下見に行かせたりなどして、約1ヶ月後の6月26日、しぶしぶ京都へと向かった。これが死出の旅路となることは夢にも思わない。

 6月30日、京都を通過して父可成公の眠る大津来迎寺を参詣。参勤交代の途中で必ず立ち寄るのが慣例だったという。そして7月1日京都に到着し、京都所司代の板倉勝重の館に挨拶に訪れた。その後兄蘭丸公達の眠る阿弥陀寺や大徳寺の総見院に信長公の墓所を参拝し、宿所を京都の法華宗妙顕寺に定めて滞在した。

7月6日。京都の茶道具商人、大文字屋宗味の邸宅で夕食を食べて、宿所の妙顕寺に戻る途中に嘔吐感を訴え始める。 その後加持祈祷や鍼灸を試みるも、7月7日未明に息を引き取った。65歳であった。
大文字屋で食後に出された桃に食傷を起こしたというのが現在の定説である。しかしこの桃、どの文献を探しても桃が原因であると示す文書類は見つかっていない。しかしながら、その後領地の津山では桃園が無くなったという事柄が記されていたり、後年の赤穂藩主森家でも桃を忌まわしい物として遠ざけた。この慣習は現在も森宗家当主森可展氏のご家庭でも遵守されておられることからも、桃が忠政公の死と無関係であるとは言い難い。

また、忠政公はその死の前日、つまり6日の午前には板倉勝重の館を訪れている。将軍家光公を出迎えるための打ち合わせであったのだろうか。

 もともと病床にあったというから、食傷を起こしたというのも納得できないわけでもないが、当時家臣の間ではあまりの急死に家光公指示による毒殺説が浮上していた。
 理由は2つある。1つは病床にあって、上洛を辞退していた忠政公に、30万石の三カ国加増まで持ちかけて命じたのが家光公。2つ目は先年遭ったばかりの亀鶴姫の急死と、嫡子忠廣公が変死に家光公が不信感を抱いたとする説。(忠廣公の正室亀鶴姫は家光公の義妹)

しかし、これを毒殺説ではないとする説が最近見つかった。忠政公死去の直後、公の友人である細川三斎(忠興)が息子の熊本藩主である越中守忠利にこのことを報じたが、忠利は更に家老の長岡(松井)興長に公の死去を知らせた。それには「5日に霍乱(かくらん)し、2日後に死去した」とある。(佐藤誠氏の調査報告による)
・・・とすれば、もともと病床の体をおして板倉邸を訪ね、その後大文字屋で食事をし、そのときの桃に食あたりを起こして急死した、と推測することもできる。
また、この直後に京都に到着した将軍家光公が江戸にいる関 家継(忠政公の外孫)を京都の二条城に呼び出し、そこで忠政公の家督を減らすことなくソックリ継がせたという事実からしても、この毒殺説は小説の域を脱しないであろう。ただ、30万石加増の話は立ち消え、出雲の松江城は京極若狭守に与えられてしまった。

 さて、このとき家光公の行列はすでに伏見に至っており、その迎え入れで大忙しであったため、忠政公の遺骸は即日船岡山で荼毘に付されて、かつて石田光成や浅野長政とともに建立した大徳寺の塔頭、三玄院に葬られた。ちなみに船岡山には現在織田信長公を祀る建勲神社が鎮座しており、平安時代には蓮台野葬場といわれて源氏物語にも登場する古来からの火葬場であった。
忠政公の引導は大徳寺の玉室和尚が引導を勤め、戒名は「本源院殿先翁宗進大居士」。
忠政公のあとを継いだのは先ほど述べた外孫の関家継で、森長継となって津山藩2代藩主の座に就いたのである。

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