信長公から解雇を受けた仙千代は金山にいた母妙向尼とは別に、信長公が留守のために岐阜城内の屋敷で従姉妹のお鍋(可政の娘)とともに暮らしていた。つまりは織田家の人質である。そして天正10年6月2日の本能寺の変を迎えた。信長公ご自害、蘭丸ら兄3人も討死の知らせはまもなく岐阜城に伝わり、さらに信州海津城を統治していた兄長可公の許にも届いた。長可は次男であったが、長男可隆はすでに戦死しており、さらに3人の弟を同時に亡くし、残るは仙千代と2人だけの男兄弟となった。また、長可公は信長公の威光によって広大な信州の領土が統治できたことをよく理解していたため、信長公亡き今は海津城を放棄して本領(長可や仙千代の生まれた金山のことで、蘭丸が城主となっていた)を守るべきと判断し、以後は豊臣秀吉に従うと決断。直ちに信州を退去して金山城に向かった。
金山城で母妙向尼と再会し、城代の各務兵庫に守備を命じた長可は、仙千代らが軟禁状態となっている岐阜城へと向かった。長可がこれから従属する秀吉公は岐阜城の織田信孝と仲が悪い。そのため、仙千代は森家が豊臣家に従属しないための人質となっていた。これを救出するため、長可公は部下数名を岐阜城内の仙千代の居所に潜入させ、屋敷の外に連れ出すと、あらかじめ用意した崖の下の布団に突き落とし、岐阜城より脱出させた。その崖は30メートル近いと言われるが、これは森家先代実録によるものであり、幾分誇張されているものと思われる。
また、このとき長可は、従姉妹の救出が出来ず断念していた。これに怒った叔父の森可政は長可と不和になり、徳川家康直属の旗本として分家した。後年忠政公が津山城主となって、可政を津山藩の執権職に迎えるまで、親戚関係を絶っていたと言われる。(ちなみに、お鍋は長可が救出断念の直後、可政の手勢によって救出された)


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