天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで豊臣秀吉公に味方した森長可が徳川勢の銃弾を額に受けて戦死する。長可はこの戦が豊臣勢の負けとなることを見越していたため、遺書を残し、死するときは白装束の陣羽織であったと言われる。
その遺書には、「家督相続の件、仙千代には継がせたくない」と記し、「武士=戦死」で綴られてきた武家としての森家は、彼の代で終わらせたいと思っていたようである。
しかし、この遺書に感涙した秀吉は仙千代に家督の相続をさせて美濃金山城主とし、さらに元服して森忠政と名乗らせた。しかし、その石高は長可の統治していたものからは大幅に減らされたものであり、後年忠政公が豊臣家を見捨てて徳川家康に従属する遠因となった。
天正13年(1585)、秀吉公に従属しようとしなかったに佐々成政を討つために、前田利家などと越前に出陣。これが忠政公にとって始めての戦となった。天正18年(1590)には小田原攻めに参加。

文禄元年(1592)秀吉公の朝鮮出兵に従うが、九州で名護屋城三の丸、冠木門、追手門の造営を行い、城の警護を担当したため、朝鮮半島への出兵は免れた。また、文禄3年(1594)には秀吉公の伏見城普請役を受けている。


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