江戸時代、徳川家が家康公の姓であった松平の苗字を諸大名に良く与えていたことは良く知られている。 実際に後年の津山藩主森家でも与えられたことがあった。これと同様に、秀吉もまた豊臣姓を家臣に与え、一門を増やそうとしたのである。特に、秀吉公は農村の出身であったために「源平藤橘」と言った氏が無く、朝廷から新たな姓として「豊臣」を賜ったため、早急に一門を増やさねばならない事情もあった。 天正16年(1588)、秀吉が建造した聚楽第の屋敷に後陽成天皇の行幸 があった。このとき、忠政公は豊臣氏を賜り、羽柴姓を名乗ることを許され、羽柴右近(右近は官職名)と名乗る。豊臣家の一門となった忠政は、この聚楽第行幸で後陽成天皇の拝謁を受け、連歌の会に出席、次のような句を披露している。
緑さへ 年に増りて 松かけの
ふかきや千代の 根さし成るらむ
ま た、このとき天皇家の家紋、菊花紋と豊臣家の家紋、五七之桐の使用を許されたが、菊花紋は辞退、五七之桐は葉の数を減らした五三之桐として使うようになった。また、森家の家紋である鶴の丸については、秀吉の第一子鶴松(のちに2歳で死去)が生まれると、「鶴」を理由に遠慮し、使用を差し控えたといわれる。
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