天正15年、天下は信長の後を継いだ豊臣秀吉の手に渡った。ところが秀吉公は強引に無謀な海外出兵を始める。秀吉公の夢は大陸の明王朝を征服することであり、その通り道となる朝鮮国に対して邪魔をしないように求め、さらに李王室に対して朝貢(貢物を朝廷に持ってくること)を要求した。しかし、武よりも文が進んだ朝鮮国は、この求めには応じず見下した態度を日本側に見せる。

激怒した秀吉公と朝鮮国との間を取り持とうと、朝鮮から援助を受けてきた対馬の宗一族と小西行長の願いも空しく、無情にも戦争は始まってしまう、こうして日本最初の海外遠征である朝鮮出兵が開始された。
秀吉公は諸大名に対して「1万石に付き兵を何人出兵すべし」といった軍役を発表し、忠政公の場合はおよそ1800名が割り当ての兵力であったが、忠政公は2000人を超える軍勢を差し向けた。 諸国から集結した「日本軍」は総数45万人となり、「唐入り」した日本軍は一番隊から九番隊まで総勢15万8800人。
朝鮮半島を目前とした場所に巨大な城を建造することになった。肥前名護屋城である。後年の津山城に代表されるように、もともと築城を得意としていた忠政公はこの普請奉行を勤めることになり、これらの兵力はすべて築城に携わることになった。また、城が完成するまでの間、秀吉らが滞在する本陣なども手配している。

おかげで忠政公は兵を失うことなく、本国に帰還することができた。しかし、森家の中でも渡海して朝鮮で奮闘した一族もいた。忠政公の叔父、可政である。

当時森一門ではあるが、長可公と不和になって関係を絶っていたため、忠政公とは別の行動をとっていたのである。後に徳川家康公直参の旗本となった可政は、忠政公の嘆願により、森家の執権として津山城に迎えられている。


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