豊臣秀吉公が伏見城で逝去すると、世の中の流れが徳川家に傾きはじめ、見る見るうちに秀吉の威光は色を失せはじめた。まずはその死を隠したまま朝鮮出兵を撤退。そして前田利家も病死し、次第に豊臣政権が徳川に家康公によって掌握されるようになると、これに不安を感じた石田三成公が連携を求めて各地の大名に書簡を送っている。当時、徳川家康公によって信州川中島の領土(これは兄の長可が治めていた旧領)を与えられ、豊臣家恩顧の大名とは線引きされた関係にありながらも、石田三成とは、京都の大徳寺に塔頭三玄院を建立し、恩師である春屋和尚を迎えるなど、個人的な交友関係があった。そのため三成からの誘いがあったのだが、忠政公はこれを拒否。その理由は次のようなものであった。「兄長可は負け戦とわかっている長久手の戦いで討ち死にした。これは他ならぬ秀吉公のためである。その秀吉公は兄の遺領川中島4郡を私の年齢を理由に召し上げになられた。しかし今、家康公は私のために川中島の封地を下された。あなた方の誘いをお受けする義理が無い」と。 この頃忠政公は羽柴の姓を捨てて森姓を復活し、家紋についても鶴の丸に戻した。また、このような決断に踏み切れたのは、忠政公と仲がよく、また三成を嫌っていた池田輝政公や細川忠興公の後押しもあったものと思われる。


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