慶長5年8月、家康公が越後・上杉景勝征討の軍を起こし関東に下ったので、忠政公もこれに応じて出陣し、関東へ向かった。
石田三成はこれより前に忠政公を味方につけようと懇ろに扱おうとしたが、忠政公はこれを拒否して徳川勢についていた。しかし、家康公にとって忠政公は三成の誘いを断ったとはいえ、共に寺院を建立するほどの仲であったのが気にかかっていたのかもしれない。
家康公は関ヶ原での裏切りを恐れて忠政公を関東にいる秀忠公の配下につけた。当時家康公は13万石の領地を忠政公に与えていた、その戦力も西軍に寝返ればそれなりの脅威にもなる。それよりも、忠政公の亡き兄、長可公は先の長久手の戦いでも忘れることのできない恐れた相手であった。また忠政公の領地川中島は上田征伐に構えるための要でもあった。
このような事情から、関ヶ原の戦いで忠政公の活躍は無い。秀忠公に付いて関ヶ原に向かう途中、信州上田城の
真田昌幸を攻めた。この攻略が長引き、秀忠公が関ヶ原へ遅参する可能性が出てきたため、忠政公は上田城を我々に任せて秀忠公は速やかに関ヶ原へ向かうよう進言した。結果、忠政公は本領の川中島が近いこともあり、真田昌幸に備えるために上田に残ることになったが、この決断に時間を要した。
秀忠公は上田城に固執して関ヶ原に向かおうとしなかったのだ。その行動に苛立った忠政公が、
「あの阿呆息子(秀忠)の奴、あんな小城にこだわって何になるというのだっ」と悪態をついたという。結果、荒天候も手伝って秀忠公は関ヶ原に遅参し、家康公より多大なる叱責を受けたことは後世の有名な語り草である。

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